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書を学ぶ

古典から学ぶ

風信帖(ふうしんじょう)

 書道で扱う素材は文字です。その文字は私達の先人が叡智を結集して作り出したものです。そして長い歳月をかけて、その文字に美を与えてきました。その文字の美は、一朝一夕に作り出されてきた訳ではありません。ですから私達が書道を学ぶためには、どうしても先人が遺してくれた古典を学ぶ必要があるのです。日本を代表する能書の空海も、中国の王羲之(おうぎし)や顔真卿(がんしんけい)と言った名家の書をとことん学んで、あの『風信帖(ふうしんじょう)』に見られるようなすばらしい書を表現したのです。そして、我邦では日本の美を代表すると言われる仮名の美を創造しました。私達はこれら平安朝の古筆を学ぶことで、日本人の美意識の原点にも触れることができます。このように、古典から書の原理原則や美の法則を学びとるのが、書道の修練と言えましょう。

 中国の紀元前14C頃、殷の時代に中国最古の文字とされる、甲骨文字が使用されていました。もともと漢字は象形文字として発達したので、絵画的な造形性に富んだ形をしています。この頃は紙がまだ無かった時代なので、鋭利な刃物で亀の甲や獣の骨に刻りきざんで線を表現しました。殷末からその後の王朝の周代には、青銅器に鋳こまれた銘文として、金文と呼ばれる書の一群があります。この頃の文字造形の面白さは、文字が言語伝達の記号に過ぎないのに、単なる記号としての形を超えて、人間の精霊の表象となっていることでしょう。始皇帝で有名な秦代(B.C3)になると、法治社会を象徴するかのように、法則性の強い規矩(きく)にはまったようなデザイン性に富む小篆が生まれました。そして、次の漢の時代には、文字=書はより日常性を帯びて、隷書体という簡略化された、書き易さを追求して行く書体へと遷って行きます。

金文      小篆

甲骨文字

曹全碑(そうぜんひ)

漢代の隷書の中では、運筆の躍動が目映えてきて、波勢という動きが線の中に生まれてきます。それは、波磔(はたく)と言われ、所謂筆をはらい出すという書き方で、優美な線造形を生み出して行きます。『曹全碑(そうぜんひ)』はその代表的な隷書の作品です。漢代という絶対的強権主義の大帝国が崩壊すると、新しい三国(魏・呉・蜀)の時代が始まります。より人間性を希求するパワーはここに新しい書体、楷書を誕生させました。ただ、残念なことに、楷書出現の年代と遺物に確証はなく、これからの研究が待たれることになります。さて、三国から晋へと時代が移ると、ここに書の歴史上空前絶後とも云える書家・王羲之が出現します。王羲之は晩年現在の紹興の地で知事をしていました。そのときに紹興から少し離れた山のふもとに造られた、蘭亭と呼ばれる園遊会場で雅会を催しました。そのときに書かれた書が有名な『蘭亭叙(らんていじょ)』です。

 『蘭亭叙』は曲水の宴の最中に書かれましたが、行書特有の軽やかなタッチの運筆で書かれ、その端正な字形は優美さの内に強い骨格を有し、明るく豊麗な表情をたたえています。後の書家にとっても行書の典型としてよく学ばれました。さて、王羲之と言えばやはり草書を挙げなければならないでしょう。『十七帖(じゅうしちじょう)』と言って王羲之の手紙29通を集めたものが法帖として残っています。草書がいつ頃できたのかは確証はありませんが、B.C1頃には当時の木簡に明らかに草書の字を見ることができます。

十七帖(じゅうしちじょう)

蘭亭叙(らんていじょ)

書譜(しょふ)

 唐代の有名な孫過庭(そんかてい)が著した『書譜(しょふ)』の中で漢代の張芝(ちょうし)が草書を能くしたという記述もあります。王羲之は4Cの人ですので、まだ原始草書的で、ムーブメントの少ない正面を向いた、論理性により組み立てられた構造の強さを残しています。

 次に長く続いた南北朝時代も幕を閉じ、華々しく唐の時代が始まります。唐の初期には皇帝に仕える三人の有能な書家が輩出しました。その中の一人、歐陽詢(おうようじゅん)をとりあげましょう。前にも記しましたが、楷書の発生に確証は無いのですが、3Cの中頃からほぼその形はまとまってきただろうと言われています。それから4世紀後、この歐陽詢がその美を完成させたとも言われています。この時代より100年程前の北魏の『造像記(ぞうぞうき)』をディオニソス的な美とすれば、『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)』はさしずめアポロ的と言えるでしょう。非常に理知的な点画の構成は見事な整斉さに支えられ、端正な美しさは古来「楷書の極則」と言われています。

九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)

造像記(ぞうぞうき)

黄州(こうしゅう)寒食詩巻(かんしょくしかん)

 宋代には新しい文化の風が吹きました。宋の新しい文化を支えたのは、士大夫(したいふ)と呼ばれる官僚達の理知的な行動でした。そしてこの時代に、蘇軾(そしょく)や黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)といった書家達により革新的とも言える書が生み出されました。

 これは唐の中頃の顔真卿の出現に拠るところも大きいのですが、(顔真卿は唐代にあって革新的な書家と言われています。)王羲之書法に縛られることなく、オリジナリティを発揮する態度とその書の表現に表れています。蘇軾の『黄州(こうしゅう)寒食詩巻(かんしょくしかん)』を見ますと、運筆の定められた秩序を越えて、自由な発想による心のリズムの躍動の発露があります。王羲之の典型を乗り越えて、新しい書を創造しようとするエネルギーを感じとることができます。

 中国の長い歴史の中でエポックメイキングとも言える時代がありました。明の終わりから清代の初めにかけて起った、特に行草書における表現主義的な動きです。明代に建築様式の変化があり、文人達の居室の天井が高くなり、3メートルにもなんなんとする長条幅を掛けることが可能になり、競ってこの時代には書家達がこの長条幅で新しい書の表現を試みました。明末清初という激動の時代をくぐりぬけた書家達は心の内なる激情を筆に託して既製のしきたりを打破り、心の赴くまま狂わんばかりに筆を走らせました。特に王鐸(おうたく)や傅山(ふざん)は独自の境地を開拓しました。

傅山(ふさん)

王鐸(おうたく)

 清代も時代が進むと学問の世界に新しい動きが興りました。歴史を文献だけからではなく、実際に金石に刻られた文章を通して考えて行こうという動きで、そこから金石学も発達し、書家達もそれに啓発されて、篆書や隷書、また北魏の楷書などに注目し、旺盛な書活動を展開しました。この中で、ケ石如(とうせきじょ)、呉譲之(ごじょうし)、趙之謙(ちょうしけん)、呉昌碩(ごしょうせき)などの特異な書家達が出現しました。ケ石如は篆書や隷書に新しい解釋を加え、豪毅な力強い書を制作しました。趙之謙も篆隷に独自の表現を試みましたが、特に北魏の時代の『龍門造像記(りゅうもんぞうぞうき)』にヒントを得て、唐代の楷書には無い龍門様式とも言える斬新な楷書を作りあげました。この時代の表現様式は日本にも伝わり、現代の書に大きな影響を与えて今日まで続いています。

呉譲之(ごじょうし)

ケ石如(とうせきじょ)

呉昌碩(ごしょうせき)

趙之謙(ちょうしけん)

高野切(こうやぎれ)

最後に日本の仮名書道に少し目を向けてみましょう。この仮名の書を基にして我邦の書と中国の書を比べると大きな違いを見ることができます。芸術や文化はその生まれた風土や民族の違いによって様相が異なるのは自明の理ですが、中国と日本でもその表現の差異は小さいものではありません。中国の貴族階級に生まれた王羲之の書は構造性に富んだ論理的とも言える書法に、優美さよりも人間くささの感じられる表現を打出しました。しかし反面日本の平安期に見られる女手と言われる仮名は情緒主義の中から繊細で優美な書を生み出しました。『高野切(こうやぎれ)』に見られる線の動きは、人間の神経の細かい機徴の情動を巧みに表現していると言ってよいでしょう。

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